伊東マンショ

所作を知らぬための羞恥と婦人に対する畏敬の念でとても困惑しました。

しかし、このような公式の場での振る舞いは、野暮に見えないよう大胆に構えてあえて敢行する他はなかったのです。
-[1569-1612] 天正遣欧少年使節 正使 日向国主伊東義祐の娘と伊東祐青との子。大友宗鱗の縁者。伊東 マンショ (伊東祐益)の言葉 エドヴァルド・デ・サンデ著「天正遣欧使節記」より-

伊藤マンショは、天正遣欧少年使節、いわゆる天正四少年の正使です。

千々石ミゲルとが正使、中浦ジュリアン原マルチノが副使です。

実は伊藤マンショだけが宮崎県出身であとは長崎県出身の子なんだね。

彼らはたった13歳くらいで長崎港を出発し、マカオ、マラッカ海峡、ポルトガルのリスボン、世界帝国スペインのマドリードで時の帝王フェリペ二世に謁見(えっけん)この時、アジア人となめて見下したフェリペ二世が「剣を見せよ」と彼らの日本刀をじっと見てそのつくりの素晴らしさに驚嘆、態度が変わったという話は有名だ。

そしてイタリアはフィレンツェで大富豪メディチ家で舞踏会に出席。

初めて見る社交ダンスに圧倒される四少年!そこで伊藤マンショは勇気をふるいヨーロッパの婦人とダンスを踊った初めての日本人となったのでした。

たった16歳の少年マンショがだよ!この感想文も真面目で可愛いよねえ。

ダンスも上手だったそうですよ。彼らの聡明さと行儀のよさ、そして性格のよさははヨーロッパ人も絶賛してる。

そしてローマ・・憧れのローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。

というとてもとても簡単にドラマになんかできない壮大な、それこそ歴史上の日本人が体験した最大のドラマかもしれないと思うぞ。

ちなみに正使の二人は殿様の子とかの家柄のしっかりした子。千々石ミゲルは大村藩主(長崎県)純忠の甥っ子だ。副使の二人こそが優秀だったらしい。

でもこの優秀な四少年の末路はあまりに悲しい。

マンショは長崎で神父として病死。千々石ミゲルは拷問でキリスト教を捨てあわれな最期に・・。

原マルチノはマカオに逃亡。日本を思いつつ死亡。中浦ジュリアンは長崎で「穴吊り」という過酷な拷問(詳しくは遠藤周作の「沈黙」を読んでね)の末、「私はローマに行った中浦ジュリアンである!」と叫びつつキリスト信者として亡くなった。

その中浦ジュリアンが来年400年ぶりにこの長崎で「福者」に列せられる。

・・・400年だよ。ローマ教皇ベネディクト16世様ありがとう。

僕のふるさと長崎がこの偉大な四少年を生み育て、そして殺したんだ。

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