ジャン=フランソワ・ミレー

芸術は慰(なぐさ)みの遊びではない。それは闘いであり、ものを噛み潰す歯車の機械なのだ。
-[1814-75] フランスの画家 ジャン=フランソワ・ミレーの言葉-

「晩鐘」「落穂拾い」農民を描いた写実画でフランスの絵画といわれればミレーを思い出す人も多いと思う。一度だけ、倉敷の「大原美術館」でミレーを見た。しかしそのときはエル・グレコの「受胎告知」を見ることが目的だったので正直あまり感動はしなかったんだよな。バイカー修ちゃんはどちらかというと、シュルレアリスムな絵画や彫刻が好きなので、ダリやカンディンスキ、ピカソやキリコが好きなんだ。人は「わからない」という人が多いけど、じつはバイカー修ちゃんカンディンスキの「モスコウ1(モスクワ)」って有名な絵があるんだけど、これを壁紙にしてる。なぜわからないんだろう?ピカソの絵なんかすごくわかりやすいと思うし、見れば見るほどば知れば知るほど二次元に多面から見た「見えるはずである」被写体を書き入れるその描写は感動を覚える。ちなみに小学生のころからピカソは大好きだった。子供のころから「目に見える部分」のみ存在して見えてない部分は存在しないのかもしれないと思い続けてきた。美術少年だったからねバイカー修ちゃんは。中学生のころ県展の特選になって美術の先生が強く「美大」に進学することをすすめてくれた。そうすりゃよかったと今ごろ思ってる。みんな目に見えてる世界を「当然だ」と思ってるだろ?そこがもう「脳みそカンブリア紀」状態だ。いいかい?クジラやコウモリは目があんまりよろしくない。彼らは超長波や超短波の反射を脳で画像化してるんだよ。それは色はないかもしれないけど、ものの裏側が透けて見える世界かもしれないのだ。光に頼るわれわれはものの裏側が見えない。それを「あたりまえだ」と思ってる。でもね!感性でそれが見える人がいるんだね。僕は見えるよ。ピカソはそれを描いてるだけだ。泥臭い農民のしぐさもミレーが描けば美しいだろ?でも・・それは途方もないエネルギーがいるんだ。なぜかはわからないけど。空間のエネルギーを凝縮してキャンパスに封じ込める。それが芸術なんだよ。そういう意味で芸術評論家はわかっていない人が多い。言葉と知識で「バルビゾン派」だなんてカテゴリ分けして、はいおしまい!・・だ。なんでみんな知ることにうつつをぬかして、感じることに怠惰なんだろう?知ることになんの価値がある?感じてはじめて価値でしょう?ミレーはお金のために描いたのではない。彼の絵が途方もなく高いのは、彼がエネルギーをこめて封印したバルビゾン村の時間がそこに氷結されているからなのだ。

月別 アーカイブ