哲学とは(中略)生命は素晴らしいとか、幸せになるにはこうすればよいとか、社会は平和であるべきだとか、その他のたぐいの、問う以前から実は既にそれが答えであるような人生論とは、真っ向相反してしまう狂気の思考なのだ。

‐[1960-2007] 東京都出身の哲学者・文筆家 池田晶子「メタフィジカル・パンチ」より‐

今日は日曜日だけど、親類の葬儀で佐賀にいかなきゃならない。

礼服を会社においていたので朝からそれを取りにクルマで行った。

途中、国道にオービス(速度取り締まり機)があるんだね。それを通り過ぎるときなぜかいや~な気がするんだ。なぜだろう?

50km制限の道路を流れに乗って通り過ぎると、いつも57~58kmだ。

これは厳密に言うと違反してる・・・けど、日本じゃ「これくらいはいいだろう」ってな塩梅でOKみたいだ。

杓子定規に50kmで通ると流れに乗れずまわりのクルマに迷惑をかける。

このストレスがなぜか気にかかる。

ふと、今の日本社会の構造の象徴的な事例じゃなかろうか?って気がしたんだ。

今の日本は、社会的な法律・タテマエと現実のギャップがあまりにも大きい。

アメリカ人は法律優先主義・・・ま、法的に問題なければトンデモない非常識も一応OKなんて社会だ。

ヨオロッパ人は頭がカタい。彼らにとっての「非常識」さをとってもいやがるようだぞ。

日本人は・・よくわかんないねえ。

でも、法律優先主義ではなさそうだな。でも、社会は「あれしちゃいけない、これしちゃダメ!」ってな調子で暗黙の規制がはびこる社会になってきた。

片側で今のワカモノ文化を象徴するような「なんでもありの自由奔放さ」を謳歌している。

なんかアンバランスな社会なんだよね。

この原因のひとつに、「日本人が考えることをやめてる」からだと思うんだ。

たぶん根本的に日本人は考えることを寄生虫のように他人にパラサイト化してイデオロギーに支配されやすいんだろうとは思う。

でも戦後、アメリカさまがなんでもやってくれたおかげで一層ひどくなっているような気がする。

なんせ大学で「哲学」を学ぶ義務がないのは世界広しといえどもわが国くらいだろうと思うぞ。

「哲学」は池田晶子さんが言うように「他人に依存しないで考える」訓練をすることだろう。

ところがどうだ?経済学者も、銀行の支店長も、大学の教授もみんなどっかで聞いてきたようなことを、たんなる「イデオロギー」をご自分の意見であるかのようにのたまう。

そういう意味でバイカー修ちゃんは「テレビ」ってメディアは人を考えなくする「洗脳マシン」だと思っている。あれは本当によくない。

だからバイカー修ちゃんはテレビを極力見ないようにしてるんだ。

重症なのは、テレビで見たことを、それが本当に「自分の考え」だと思い込んでいることだ。

こういう人々の言うことには残念ながら説得力がない。

日本の政治家にはこういう人が多いんだな。

オバマ大統領の言葉にオーラがあるのは、あの人は少なくとも「自分で考えて」いる言葉だからだろう。

その意味で総理大臣の「友愛」に説得力がないのは、それがお父さんの受け売りだからかもしれない。

その「イデオロギー」をみんなが信じているうちはまだよかった。

でもいまや「経済至上主義イデオロギー」も「社会主義イデオロギー」も「浪花節イデオロギー」もなんか不安だ。信じるにはちょっとアヤしい。

自分で考えない人々には潜在的につねに「不安」がつきまとう。

不安は相互の不信を生む。

もともと、島国で地域の強い信頼関係で成り立ってきたわが国にこの「相互不信」は土台を揺さぶる病魔となりえる。

残念ながら西欧みたいに困ったときは「キリスト教」みたいな確固たる宗教観もない。

日本の問題はここにあるのかもしれない。

朝、オービスの下を自分の意志はそっちのけでみんなで通ればこわくない!ってな「寄生虫的イデオロギー」で58kmで通過してとってもいや~な気分になったバイカー修ちゃんは、こう考えたのでした。

自分で決定しない行動にはつねに不安がつきまとう。

調子がいいときは気付かないフリをしてるけど、今やみんなと同じことをしているとドンドン悪くなってしまう時代だ。

さあ!あなたは自分で考えて行動してますか?

「幸せになれる99の法則」なんてトンデモノウハウ本なんか買って読んでることそのものが、「寄生虫的パラサイト思考」なんだよ。

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