「時間」とは、事物の状態ではなく、思惟(しい)の様態にすぎない。

‐[1632-77] オランダの哲学者 バールーフ(ラテン語名ベネディクトゥス)・de・スピノザ 『形而上学的思想』より‐

最近、「バイカー修ちゃん・今日の一言」の更新が滞ちがですいません。

僕がさぼっているんです・・・。今日は、バカ話ではなくて、真面目に難しい話をしましょうか・・・。

なるべくわかりやすく説明しますね。

 

僕は講演でよく「時間の双方向性」について話をします。

今日はよく問い合わせを受ける、この「時間の双方向性」についてお話をしましょう。

ここから先の話は、あくまで僕の考え方なので反論されても受けかねます・・・あしからず。

 

みなさんは、時間とは「過去から未来への一方通行」だと信じておられる方が多いと思います。(あたりまえか?)

しかしなぜ時間は一方通行で不可逆的なのでしょうか? だれも説明できません。

現実問題として「そうなっているから」としか言えないのです。

「エネルギー」といっしょで「存在」を疑う人はいないけど、実態はだれも説明できないのと同じです。

僕はこの「時間」とは、実は実在してないのではないか? と考えています。

 

スピノザが350年も昔に看破したように、「時間」とは、物理的に実在するものではなくて哲学的に人間の脳の中で観念的に存在するもの・・・。

これはすでに、プラトンが2400年も前に「時間は、永遠の動く影」といい、近世ではカントが230年前に『純粋理性批判』の中で、「空間と時間とは、精神の直観である」と説いています。

昨今は、物理学万能主義で、哲学的解釈や思考を軽んじるきらいがありますが・・・わかりやすく言うと、時間とは、ものごとを理解するために、脳がつくりだした妄想だといえます。

おそらくすべての動物で、「時間」という概念をもっているのは人間だけだと思います。

この「思い込み」というのは恐ろしくて、ほとんどの人は「未来はどうなるかわからない」と考えているので、見事に将来のことを考えない人があまりにも多い。

じつは、過去がもうすでに「あったこと」であるように、未来も自分の「思ったようになる」のである。

・・・と、こういうと「そんなことはない!」と反論する声が聞こえそうである。

また、スピノザの言葉を借りよう。

「自分で出来ないと考えている間は、人間はそのことをやりたくないと決めているのである」

http://www.q-bic.net/biker_blog/2005/03/de.html

・・・そう、人生が思ったようにならないと思っている人は・・・じつは「自分がそのことをやりたくない」と深層心理の中で決めているから「できない」のである。

そろそろ混乱してきたでしょう?

この後は・・・また後日にしましょう。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.q-bic.net/mt4/mt-tb.cgi/2175

コメント(2)

PPさんいらっしゃい。
「宗教的」・・そうかもしれません。
しかしながら「宗教的」という言葉が今、なにか「いかがわしい」イメージがただようようになったのは近世にことで、イエスやブッダが生きていた時代から長い間は、その教えは「科学的」であったのです。
太陽にわれわれが住むことはできなくても、「生命体」という概念を見直そうという動きはあります。
星そのものや、恒星のプロミネンス、核融合そのものにもある種の「叡智」が宿ると考える学者もいます。

科学は所詮、しくみの説明しかできず、「なぜ?」の問いには宗教しか答えられないのだと思います。
科学の世界でもこの宇宙は、かつて一個の「点」だったと教えます。
これがどこまで「科学的」でどこからが「宗教的」なのか・・・誰も答えることはできないでしょうね。

できない やりたくない 努力したくない

これはレベル的なものですね
例えば、太陽に住めると思う人はほとんどいないでしょう
“あいさつをできる”はほとんどの人がそう思うでしょう
自分のできるラインを人それぞれ引いてると思います
自分は神になり宇宙を支配できると思ってる人は多いのかも知れません
自分は永遠の生命を手に入れたと思ってる人も多いかも知れません
人生というちっぽけなものとは比べられない壮大なものを手に入れたと思う人も多いでしょう
何か宗教的ですね
自分自身が宇宙以上のもので宇宙を自由にコントロールできるようになれると思います

コメントする

月別 アーカイブ